稲城市の紹介

稲城市発行「いなぎガイドマップ」より

稲城市公式ホームページ

稲城市の位置


位置:稲城市は、東京都心の西南約25km、南多摩地区の東端に位置しています。
      東経:139度30分29秒   北緯:35度38分5秒

面積:17.97平方キロメートル(東西、南北とも約5.3km)

地形:南西から北東に緩やかに傾斜した標高約45mのほぼ平坦な地域と、北の境界線となる多摩川とほぼ並行して走る標高約85mの多摩丘陵からなっています。



稲城市のあゆみ

  稲城市の歴史は、今から5万年前の旧石器時代にさかのぼります。 坂浜から出土された石器は南関東最古の物といわれています注1注2。 また、数多くの縄文時代遺跡が発見され、縄文人の暮らしがうかがえます。
  奈良時代、全国に国分寺がつくられるようになり、大丸の瓦谷戸では武蔵国分寺造営に使われた瓦が焼かれました。 平安時代の末期には、武士団の一つである稲毛氏の勢力下にあったとされ、矢野口と川崎市との境にある小沢城址は、稲毛・小沢両氏の居城でした。
  江戸幕府が開かれると、稲城市のほとんどが幕府の天領か旗本知行地となりました。 この時代には、その後の農業の基礎となった大丸用水が整備されました。 また、多摩川の氾濫や幕府の架橋禁止政策により、渡しによる交通と、和船(渡し船)づくりが盛んになりました。
  1889年(明治22年)4月の町村制施行により、矢野口、東長沼、大丸、百村、坂浜、平尾の6か村が合併して、神奈川県稲城村が誕生しました。 1993年(明治26年)、神奈川県より東京府に編入されました。
  1949年(昭和24年)には、当時の北多摩郡多摩村の南押立と常久の一部を境界変更により合併して、現在の行政面積となりました。
  1957年(昭和32年)4月に人口1万125人で稲城町となりました。 1965年(昭和40年)に入ると、JR南武線の複線化や京王相模原線の開通で、人口が急激に増えました。 特に、1970年(昭和45年)からの5年間は、東京都住宅供給公社平尾住宅の入居とあいまって、人口の伸び率は、42.5%と東京都内で2番目に高い率を示しました。
  1971年(昭和46年)11月1日、人口3万6800人で稲城市となりました(東京都で25番目)。 1988年(昭和63年)には、多摩ニュータウン稲城地区第1区である向陽台への入居が始まりました。
  1999年(平成11年)9月現在、人口6万7000人、世帯数2万6600世帯(住民基本台帳と外国人登録による)です。


市の木「イチョウ」

  苗木も入手しやすく植栽も簡単です。 公害に強く、街路樹に適していて市の木としての品位もあるといった点から、市の木に選定されました。 イチョウは市内に数多くあり、矢野口交差点から100mほど川崎市よりのものが古いとされています。(1973年11月1日制定)

市の花「梨」

  梨は江戸時代元禄期から栽培されはじめたともいわれ、現在も稲城市の特産物です。 矢野口、押立、東長沼を中心に、およそ40ヘクタールの梨畑があります。 春の盛りに白い花がどこまでも続いているのは、稲城を代表する風景のひとつです。(1973年11月1日制定)



稲城市民憲章

  縄文の昔から緑豊かな多摩の横山と多摩川の清流にはぐくまれた私たちのまち稲城。
  私たちは、このまちに住み、このまちを愛し、いつまでも平和で友愛に満ちた心のふるさと、稲城市をつくるために、市民憲章を定めました。
  市民ひとりひとりがこの憲章を心の道しるべとして、より豊かなまちとなるよう協力しましょう。

一、太陽と緑を大切にし、土の香りのあるまちをつくりましょう

一、市民としての自覚をもち、助け合って住みよいまちをつくりましょう。

一、年よりやこどもをいたわり、助け合って住みよいまちをつくりましょう。

一、心身ともに健やかに、笑顔で働けるまちをつくりましょう

一、伝統を尊び、文化を高め、未来に展望がもてるまちをつくりましょう。

(1981年11月1日制定)

稲城市平和都市宣言

  かけがえのない、この美しい地球を守り、世界の恒久平和を願う人々の心は共通のものであります。
  現行憲法に貫かれた平和の精神をもとに、非核三原則を遵守し、世界の人々と手を携えて、人類永遠の平和を築くことが私たちの責務です。
  市民憲章の心を基本理念として、私たちは真の平和と幸せを望み、このまちに住み、このまちを愛し、いつまでも平和で友愛に満ちた心のふるさと、稲城をつくるために努力しています。
  ここに稲城市制二十周年の年を迎え、平和への誓いを新たに決意し、稲城市が平和都市であることを宣言します。

(1991年3月7日)